Lunatical life in broad daylight
へにょ~~~…… リ ツ 。ヮ ツ。
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ゆらめきのプレリュード⑥
 第六章 つかめぬせつな

 やわらかな春雨に包まれた、モノトーンの世界。音も無く落ちてくる微細な水滴の群れ――それが、生まれて初めて体験した、『雨』の第一印象だった。
 いつにも増して濃厚になった、土と草木の匂いに戸惑いながら、私は奥座敷へと歩を進めていく。楓から話を訊こうとする前に、まず、私の答えを待ってくれている小里さんに会って、心に決めたことを伝えたいと思ったから。
 普段なら、小里さんは、庭先や外に出歩いて誰かと一緒に時を過ごしたり、広縁や縁座敷でじっと外の景色を眺めていて、夜以外の時間帯には、奥に引っ込んでいるということは、まずありえない。しかし、小里さんは、私が訪れる時を、じっと静かに待っていてくれた。
「おかえり、純理ちゃん。その調子だと、お薬も、ちょっとは効いたかな?」
 冗談めかした口調だけれど、不思議と、温かさにも似たような心遣いが感じられる。初めて会った時から、まるで掴みどころの無いような人だったけれど、頼りがいとはまた違った包容力を持っていたりする辺り、伊達に『お姉さん』を自称してはいない。
「小里さんからのお薬、効き目があるだけに苦かったですよ。今度はもうちょっと飲みやすくしたものをお願いします」
「でも、多少は苦くしておかないと、『良薬だよ』って感じが、しないからね・・・そうだ、次からは、由良ちゃんからの口移しにしてもらおうかな」
 まるで、さっきのやり取りを見透かしているかのような反撃に、思わず身を引いてしまう。もしも、顔に出てしまっていたのだとしたら、これからは気をつけないと。
「さてと、本気の冗談はこのくらいにしておいて・・・記憶、消さないことに決めちゃったんだね」
 すこし俯いた小里さんの微笑には、半ば諦めにも似た感情が溶け込んでいる。それは、私がこれから口にする言葉がもたらす結果の重さと、それを受け取る意思を確認する為に行われる、最後の儀式だった。
「はい・・・この結論にたどり着くまでには、ずいぶんと思い悩みました。けれど、結局は、全てを教えてもらった上で、私に出来るだけのことをやろうと、心に決めました」
 一切の事情も、重大性も知らされていないくせに、命を賭ける覚悟を問われるほどの難題に自分から深入りしようとするなんて。そんなこと、常識では考えられない。私だって、自身が傷つくことが怖かった。他人を傷つけてしまった時に、それを責められることは、それ以上に怖かった。しかし、現実から目をつぶって、何もかもを他人の所為にして生きていく道を選んだなら、私は、もっと大切なものを失ってしまうと思った。
 錯綜する視線。湿った空気を伝わってくる雨音以外に、一切の干渉を許さない空間。
 そして、一瞬にまで凝縮されていた時間が、解放される。
「未知の世界に針路を取り、誰かの役に立ちたいと願う気持ち――一万六千年の時間を超えて、なお引き継がれてきた血と想いが、純理ちゃんの内に流れ続けているという奇跡。その想いを汲み取るのなら、いよいよ、お姉さんも覚悟を決めないといけないかな」
 何の脈絡も無く、突然に振り込まれてきた話。あまりの掴み所の無い話を前に、私は思わず、狐につままれてしまう。そんな私をさて置いて、小里さんは火鉢に据えた鉄瓶から湯を注いで、二つの湯飲みにお茶を淹れると、ひとつを、私の手前に差し出した。
「信じるか、信じないかは、純理ちゃんが自分で決めることだけれど、お姉さんが知っている限りの事を、これから教えてあげる。楓ちゃんと希ちゃんのことだけでなく、この白梅寮が、どういった場所で、どんな因縁によって、みんながここに集まっているのかということまで、ちゃんと含めてね」
 ひとすじの湯気に一瞬霞んだ後の小里さんの表情には、また、いつもの悪戯っぽい笑みが戻っていた。
 私も、ひとまず気持ちを落ち着ける為に、出されたお茶を一杯すすって・・・
「あぁっ・・・・!?」
 出されたお茶は、見た目は普通だったけれど、喉が渇きそうなくらいの激甘だった。
「お口に合わなかった? それはそれは高級なお茶と、純理ちゃんから巻き上げた氷砂糖を、ふんだんに使用したんだけれど・・・」
「あまりにも・・・・あまりにも、酷い仕打ちです・・・氷砂糖という存在のあり方を、根底から否定するような使い方じゃないですか!」
 結晶の美学というものを、まるで解っていない。氷砂糖は、刻一刻、瞬きひとつする間にも、種々の分子構造へと形を変える蔗糖分子の溶液から、晶析技術の粋を尽くして、最適の結晶型だけを析出させた芸術品なのに。それを、単なるお茶の甘味料にする為だけに溶かしてしまうなんて、あまりにも酷い仕打ちだった。
「それなら、あらかじめ知っていた方が幸せだったと思う?」
「当然、全力で阻止してます!」
「未来を知る手段があれば、実践したいと思った?」
「氷砂糖を救うためだけに実践するかは、微妙ですけれど・・・その技術は、相当に有用だと思います」
 本題を悟った私は、そこで区切りを付けてから、ぐっと激甘茶を喉の奥に流し込んで・・・直後、糖分と引き換えに襲ってきた倍の渇きに、敢えなく悶絶した(あの、超浸透圧飲料を飲用した人間は、全身に塩を振り掛けられて緩慢な死を迎える刹那のナメクジの気持ちが、同じ生命体として、十分の一くらいは理解できるに違いない)。

「さて、純理ちゃんが息を吹き返したところで、さっそく本題に入ろうね」
「悶絶させたのは、誰ですか・・・・」
 私からのささやかな抗議を流す形で、小里さんは追想を始める。
「ほんのちょっとだけ昔――純理ちゃんが住んでいた時点から見ると7934年前。長い長い歴程の末に、投棄天体を甦らせて、私達が新たな安住の地を得た、再生の時代。生態系を利用した共生と元素再生で旧時代以来の豊富な物質文明を手に入れつつあった人類の指導者層に、さっきの純理ちゃんと、同じようなことを考えた人がいたの」
 小里さんが言及しようとしているのは、喪失の時代。一般教養では、過去から学ばなかった人類が、限られた資源を損耗し、共同体をまるごと滅亡させかけた時代とされている。しかし、もしも、その時代の人類が、私と同じことを考えたとしたら、その時代は全く違う意義を持つことになる。もしも、その損耗が、徒な浪費ではなかったとしたら――その本質が、自分達の未来にかけた、未曾有の大規模な投資だったとしたら。
「二度と手に入らないかもしれない、豊富な物資を総動員してまでも、究極の予測装置を開発するつもりだった・・・ということですか?」
「当時の時空論でも、既に枠組みの99%は完成の域に達していたけれど、神が全宇宙の構成原理として創った究極の数式、『聖式』の候補は何億と存在していたの。あとは、無数の思考結晶を同調させるネットワークデバイスを完成させて、人間を含めた、あらゆる生物の生態と全世界の物質変化の情報を収集して瞬時に計算しつくすプログラムがあれば、それでよかった。それによって、本物の聖式を活用させることができたとしたら・・・その物質は、もはや機械ではない。人の手によって生み出された預言者。考え方によっては、神そのものにも等しいと言っても、過言ではない存在になる。それを創りだすために、人類そのものの寿命を削る程の勢いで資源と人材が注ぎ込まれていったから、記録資料にすら事欠いてしまったっていうのが本当のところって訳。その遺産のごく一部は、亜実ちゃんのような、各種の予測システムへと受け継がれているけどね」
「でも、失敗したんですね。不確定性原理や不完全性定理からすると当然の帰結だったのかもしれませんけれど・・・」
 不確定性原理は素粒子レベルで情報を得ようとしても必ず損失が生じてしまうという原理で、不完全性定理はあらゆる理論が根本的には証明不可能であることを立証した理論として知られている。原理的に完成が不可能な演算を行おうとしていたのだから、どうあがいても不完全になるのは避けられない。
「純理ちゃんが言っていることは、パラダイムの一つに過ぎないよ。どんな時空間論だって、結局は、人間が不完全な感覚と思考から生み出した特定の論理回路の上に投影したものに過ぎないんだから。もっとも、その手続きを踏まない限り、人には認識できないから仕方がないんだけどね。まぁ、この世には、純理ちゃんの理屈が通じない世界もあるってことで、これから先は、『そういうものの見方もあるのかも』ってくらいの感じで、聞いていけばいいからね」
「その飛躍には、引っかかるものがありますけれど・・・続けてください」
 『時間についての見解は、人間の胸中に源を発して思考の領域に立ち上ってくる』『人々がどんな時計を使用するかは、決して偶然のことではない』――『砂時計の書』の一節でも触れられているように、唯一絶対のものの見方で、全ての事象を考えることは、現在では、もはや考えられない。場合に合わせて、その都度最適な理論を適宜採用するのが常識になっている。そうである以上、最終結論として私がそれを受け入れるかどうかはさておくとして、まずは、小里さんの前提で話を進めてもらう。
「この無茶な計画は、技術的問題だけでなくて、政治的な方面からも抵抗が激しかったから、一旦は頓挫するかに見えたんだけれども・・・純理ちゃんの期待を裏切る形で、歴史の上では、ほんの一瞬だけども、完全な聖式を組み込んだ、究極の未来予測システム、『聖体』は、完成してしまったの。実証実験の結果を分析してみても、予測と相反するような事実は、ゼロに限りなく近いといって良く、『当てられない事など無い』とまで言えるくらいの完成度だった」
「美月や亜実が、不完全にせよ、その聖式に関する知識を引き継いで活用していることは認めます。しかし、そこまで完成したというのなら、どうして、その知識や聖体が残っていないのですか?」
 当然の疑問を口にする。
「うん・・・・・結局、開発したのも、利用したのも、人間だったからね。聖体も人の業から無縁ではいられなかったんだよ。自分達が生み出した未来に恐怖したり、不都合な予言をする可能性もあった。それに、宗教というイデオロギーから見た場合、信仰対象以外の神なんて、偽り以外の何物でもない。何よりも、物象化しなかったがゆえにそれまで希望の対象になっていた未来は、『過去以上に自由と精神を束縛する鎖』として、具現化してしまった。最終的に、ある人間との接触が引き金を引いた形で、もともと、一体だけしか作られなかった聖体のコアデバイスは、二十六の断片(フラグメント)になって散逸し、プログラムも全消去の命令が実行されたの。そのうえで、さらに念を入れて情報閉鎖が徹底されたから、今となっては知る者も殆どいない、『歴史に埋没させられた存在』になってしまっているの」
 歴史の授業も嫌いではないけれど、今は失われたものよりも、まずは、目前の問題について知りたかった。
「その聖体が、楓と希についての話と、どう関係しているのですか」
「そう、その聖体は断片化されて死んだけれど、また、復活しないとも限らない。砕け散った断片は、もともと一つであったがゆえに、元の姿に戻ろうとする。一つであった時を想って、自分の断片を求め合う。希ちゃんは、それらの断片を全て闇に葬ることで、聖体の復活を阻止する事を責務としている一族の末裔だから、断片を持っているみんなとは、決して仲良くなることができない。それに、そんな理想を本当に実現しようとしたら、多くの人達が悲しむことになる。だから、楓ちゃんの一族は、希ちゃんと半ば対立する形で、現状を維持することを、その責務としているの。そんな関係にある以上、楓ちゃんと、そして、希ちゃんの歩む道は、遅かれ早かれ、いつかは対立してしまう。いや、もう、そうなってると言ってもいい。そして、純理ちゃんは、そんな二人の関係の中に、身を割り込ませようとしている・・・だから、純理ちゃんには、出来れば全てを忘れてしまって、幸せに生きて欲しかった」
 楓と希の関係と、私自身の立場。しかし、それでもまだ、分からないことがある。
「この白梅寮には、楓と希以外にも、小里さんや、私達がいます。どうして、私達は、ここを訪れてしまったのですか?」
 私の問いに小里さんはきょとんと目を丸くして・・・苦笑しながら言葉を継ぐ。
「さっきも、話したよね。『断片は互いに求め合う性質がある』って――純理ちゃんも、由良ちゃんも、美月ちゃんも亜実ちゃんもきくなちゃんも、自覚が有るか無いかとは関係なしに、少なくとも一つ以上の断片を所有しているの。それらしいものを持っていないとしても、その時には、身体そのものと同化している。時間の流れから隔絶された、白梅寮という閉鎖空間に向かってゲートが開いたのも、聖体の動作プログラムが実体を保つことができる、唯一の場所へと、断片が自らを導いたのが原因。純理ちゃんと、由良ちゃんの場合は、断片同士の接触による活性化がきっかけになったけれど、もしも、あの時に二人が出会わなくたって、いつかは、此処に導かれる運命だったの」
 その言葉が事実だとしても、私は、身体に何かを埋め込まれた自覚なんて、持ちあわせてはいない。しかし、断片の心当たりを捜すことは今のところは差し迫ったことではないし、より重要なことを、ここで確認する必要があった。
「私の推測が正しいのなら、その動作プログラムって・・・」
 白梅寮がプログラムの実体を保つための装置であるのなら、消去法で導かれる答えはひとつ。
「そう、時間の流れから隔絶された特殊な時空間を構成して、そこに逃げ込むことによって、プログラム《心像》(イマージュ)の具象体、『永泉寺小里』は、消去命令を実行されながらも、寿命をぎりぎりのところで維持している。でも、今更お姉さんが生きるか死ぬかなんて話は、どうだっていいの。お姉さんは人の想いを受けて創られたけれども、お姉さんの消滅を望んだのも、また人の想い。全てを知っているからこそ、お姉さんは何もしなかったし、何も求められていない以上は、何もするべきではないと思った。純理ちゃんにお節介を焼いちゃったあたりは、まだまだ精進が足りなかったけれどね。これから先、かつての私の断片を受け継ぎ、託されてきた人間が何を決断して、創造と破壊の末に、なお何を望むのか・・・その新たな願いが生まれた時、それを受け止める為、お姉さんは、ここに『存在』しているの」
 どれだけの間、そうしてきたのだろう。尽くした人に裏切られて、生死の区別すらつかない状態のままに幾千年という歳月を見つめ続けて。それなのに、小里さんは誰も憎むこともなく、導かれるままに訪れた私達を、自分の世界に受け入れている。
「これで、お姉さんからの昔話はおしまい。これから先、未来への道筋を刻む仕事は白梅寮のみんなに委ねられている。純理ちゃんも、一歩を踏み出した心を信じて行ってあげて。現在をもっと深く知って、より良い針路を指し示すために・・・」
 哀しいくらいに純度の高い、小里さんの微笑み。小里さんの行為は、自分自身に何ひとつとして対価をもたらさないのに。こんな時にどうしたらいいのかさえ、私は知らない・・・いや、違う。私はもう、どうしたら良いのか、教えられている。此処を訪れたことによって、初めて教えられたこと。
「ごめんなさい・・・でも、私はこうする以外に、気持ちを伝える手段を知らないから・・・」
 思いを伝える言葉が、見つけられなかった。小里さんなら、どれほど下手な言葉でも、私の意志を汲み取ってくれたかもしれない。けれど、言葉の網の目から零れ落ちる感情の全てまでは、どうしても、伝えられなかった。だから、私は小里さんの身体を抱いて、精一杯の想いを搾り出すように、静かに泣いた。強まっていく雨音の中、薄いブラウス越しに感じる温もりは、人のそれと、まるで変わらなかった。
「優しいね・・・・純理ちゃんの気持ち、ちゃんと伝わったよ・・・・」
 長いような、短いような感情の迸りが終わった後、小里さんは軽く服を整えてお礼を言う。そして、最後にもう一つ、大切なことを、私に教えてくれた。
「言い忘れていたけれど、純理ちゃんの持っている断片は心の座に同化しているよ。扱い方は、純理ちゃんが心から望んだ時に、断片が教えてくれるから・・・」
 胸に手を当てられた辺りに、急速に湧き上がる感覚。無数の微細な分子のひとつひとつが、私自身に溶け合って、ありとあらゆる細胞の内外で結合していることが分かる。私の中に、かつて世界を変えようとした、技術の結晶が存在しているという現実。
「・・・この断片の行き着く先は、純理ちゃんの意思で決めてあげて」

 奥座敷を辞した私は、ゆっくりと時間をかけて深呼吸をする。新たに得た知識を組み込んで再構成した意識世界の中で、私は、起こりうるすべての事象を想定しなければならない。そのために必要な酸素と活力を、身体の隅々にまで送り込んでいく。
 鉛色に厚く覆われた空と、止め処なく続いている水音。その中で、かすかな肌寒さとともに自分が寝間着姿のままだったことを自覚した私は、重要な事項をまだ確認していなかった事に気がついた。
「純理様、御無事だったんですねっ!」
 台所を訪れた、私の姿を目にするなり、亜実は、職分を無条件に放棄して飛びついてきた。
「あのおびただしい量の鮮血に染まった制服を見てからというもの、あらゆることに気がそぞろになってしまいまして・・・先程も、あやうく、お洗濯の最中に火の始末を忘れてしまう所でした」
「気にしてくれたのは嬉しいけれど・・・・私のせいで、白梅寮が炎上の危機に晒されたことだけは、永遠に、二人だけの秘密にしておこうね・・・・」
「純理様が気に病むことは御座いません。もし、この一件が元で私達がお暇を頂くような事になろうとも、私が責任を持ちまして身の回りをお世話させていただきますっ☆」
 やる気に満ち溢れた瞳を見せて、意気込みを語る亜実。けれど、個人的には、せめて屋根のある場所で、生活を送らせて欲しかった。
 背中に冷たいものを感じながらも、洗濯された制服と手帳の保管場所を教えて貰う。もしかしたら、私が意識を失っている間に楓からのメールが着信しているかもしれない。そう思うと、伝い廊下を進む足取りも自然に早まっていく。もちろん、それらが私にとっては既に「身体の一部」みたいな存在になっているというのもその理由だけれど、さっきから、かすかに肌で感じている違和感、空気のゆらぎほどにも小さい、誤算の匂いが漂っている。もちろん、そんな予感は、当たるよりも外れてくれた方がずっと有り難い。しかし、私の諦めに似た淡い期待は、衣装が陰干しされた海棠の間に至ってから、わずか12秒で命脈を断たれることになった。

「落ちちゃってる・・・・それも、完璧なまでに」
 生乾きの制服は、かすかにシミが残っている様子が観察されるけれど、仕上がり具合はまあまあの域に達していた。問題は、濡れた布の上に置かれていた手帳の方。開いてみても、表示らしいものが全く表れない。知っている限りの復帰方法を実行してみても、全く効果が無い。
しかし、唯一の情報系端末を失った原因については、ほどなく判明した。
「どうしたかとおっしゃられましても・・・、その手帳もやっぱり血で汚れていましたので、制服と同じように水に1時間ほど浸してから、美月様から頂いた洗剤を使って――うぅぅっ、また何か、過ちを犯してしまったのですか・・・?」
 これまでの経験から、自責でひしゃげてしまった亜実を、これ以上追及したところで、沈着していくだけなのは目に見えている。それでも、悲劇は、繰り返さないに越したことはないのだから、せめて、指摘だけはしておかないと。
「これは水に浸けても別に構わないけれど、美月の洗剤がいけなかったの。強力な分解酵素のおかげで、確かに血は落ちてるけれど・・・学校から貰った安物だったから、ディスプレイを通して洗浄液が染みこんでしまって、内部の有機デバイス・・・特に、塩基演算部の主要部を、分解してしまったの。ちょっと見てみただけでも、量子チップとメモリを除けば、演算・表示デバイスの大半が損傷するか流出してしまっているから・・・再生キットの持ちあわせも無い以上、修理するのは、絶望的に難しいかな」
 たまたま由良と私が接触して、それをたまたま通りかかった小里さんが目撃して、たまたま出血した私の制服を通して手帳に血液が付着して、私が倒れたせいで一人で洗濯をすることになった亜実が、たまたま最悪の方法で手帳を洗浄してしまった・・・殆どありえないくらいの確率で要因が積み重なった末に、起こった悲劇だった。
「あの・・・こんな醜態を晒してしまっては誤解されちゃいかねませんけれど、第三世代(わたしたち)の、誰もが、揃いも揃って機械に疎いということはございませんので・・・大規模なシステムでは、大抵の場合修復専門のシリーズがいて、どんな欠損や損傷もその場で構成してしまう水準の技術を持っています!」
 身内を庇いたくなる気持ちは理解できるけれど、赤面しながら力説する亜実を見ていると、その一途さと的外れさに、思わず苦笑してしまう。
「亜実がもともと専門外なのは知ってるよ。それに、亜実が言っているような、第三世代――まるで美月みたいに、構成技術を応用してあらゆるものを作ってしまうようなタイプが此処にいない以上、もう、この手帳は諦めて・・・・」
 と、言いかけたところで、私は、新たな手掛かりに気付く。ポケットの底に封印するには、まだ、ほんの少しだけ早かった。

 とはいっても、白梅寮が共同生活の場である以上、手帳にばかりこだわってもいられない。亜実には中断していた夕食の用意に復帰してもらうと、暇を持て余して来たきくなと一緒に、私も夕食の用意を手伝った。
「雨・・・まだ止まないね・・・」
 ぽつりと、きくなが口にする。作為的につくられた空間なのに、雨が降っている。これが、果たして仕様なのかどうかは分らないけれど、こんな無駄に思えるような設定も、小里さんの趣味なのかもしれない。しかし、この雨雲を見つめる私の中には、何か漠然とした、しこりのような違和感があった。
 やがて、夕食ができあがって、いつものように、亜実がみんなを呼びに行く。しかし、楓と希の二人だけは、誰の前にも、その姿を現すことはなかった。みんなで手分けして、隅々まで探し歩いたのに、何処にいるのか、何をしているのか、手掛かりひとつ、見つけることができなかった。




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