Lunatical life in broad daylight
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ゆらめきのプレリュード⑨
 第九章 ゆきつくさきは

 最適な計画だと、信じて疑わなかった。楓と希に会うという目標を、最小のリスクで達成する。その為に設定した計画は、軌道を外れることなく、きれいに進んでいた筈だった。
 「美月の力を借りて手帳を修復し、楓と連絡を取り合ってから、即座に駆けつける」。いかにも、もっともらしい予定だと錯覚してけれど、その間に起こるはずの他人の行動を一切考慮していなかったのだから、独り善がりな甘すぎる思考だったと、認めざるを得ない。
 亜実と希の接触が計画を狂わせたのではなく、前もって、予測に組み込んでおくべき要素を軽視してしまった、私のミスだった。
 つい感情的に揺さぶってしまった由良の容体は、次第に回復しつつある。けれど、仮に歩行可能な程度にまで回復できたとしても、本調子に戻るまで待っていられる時間的余裕はありそうにない。
 やるせない気分で亜実が残していった謎の球体をバッグに納めた私がやるべき行為は、計画性も技術性も完全に無視している、低劣極まりないものしか思いつかなかった。しかし、楓の命に比べれば、私の自尊心なんて、埃ほどの価値すらないということも、私は自覚している。そんなことも理解できないような人間にだけは、なりたくなかったから、私は、恥をかなぐり捨てる決断を下した。
「・・・由良、さっさと起き上がって。肩くらいなら貸してあげるから、一歩ずつでも歩いて、当てが無くても、とにかく楓を探しに行こう」
 先刻までとは、全く逆の行動を取っているのだから、自己矛盾も甚だしい。しかし、此処でじっと、手帳の再起動を待ち続けて、殆ど無為に時間を消費していくのは、それ以上に耐えられない。褒められたものではないと分かっていても、最悪の選択肢の中で、最も賢明な選択を為す義務が、私にはあった。
 まともな平衡感覚が戻っていない由良を、無理やりに立たせるのは、思った以上の大仕事になった。その場にいるきくなの手を借りた末に準安定的な体勢を作ることができた私と由良は、開発途上の自律式四足歩行機に匹敵する危うさを孕みながらも移動を開始する。
「きゅぅ・・・わたし、世界がまだ回っているのに・・・純理だって、飲酒運転なのに・・・こんなの、絶対よくないよぉ・・・」
「甘えている余裕があるなら、もっとバランスを取るのに集中してよ。私だって、こんなに接も触面積が大きいと、心肺機能が、今にもどうにかなっちゃいそうなんだから・・・」
 腰と肩に腕を回して、身体を密着させることで重心の一部を文字通り肩代わりしている私も、無駄に動悸が激しくなってきている。これで、もしも由良が異性だったら、恋愛文学の各所で擦り切れるくらいに使い古されていそうな場面になるけれど、幸か不幸か、私が支えて一緒に歩いているのは、ほんの少し特異的な性向を持った――同性で年の頃も近い、おせっかい焼きな女の子だった。
 普段、何を考えているのか。私と、どんな関係を持って生まれてきたのか。こんなにも近くにいるのに、私は未だに、由良のことを殆ど知っていない。今はこんな状態だから何を訊いてみたところで、まともな受け答えは期待できそうにないけれど、事態がいったん落ち着いたら、しっかり話をして理解を深めておく必要があった。由良の言葉が真実であるなら、私と由良は、これから関係して、これから、同じ時を紡いでゆくことになるのだから。
 広縁から縁座敷を抜けて渡り廊下に出れば、玄関までは数十メートルの距離で到達できる。しかし、そこには両腕を大きく開いて立ちふさがる人影が、私達の道を阻もうとしていた。
「どうか・・・行かないで下さい。行ってしまったら――おそらく、生きて帰ってくることは叶わないでしょう」
 威圧するでもなく、敵意などの不純物に濁ってもいない。さながら境界を司る彫像のように、澄んだ視線をまっすぐに向けてくる。仮にココアホイップの上着や白のエプロンドレスに身を包んでいようとも、亜実の切実な言葉の中には、生々しい現実感と、預言者特有の憂いが内包されていた。
「私の不完全な予測系統システムでも、明白に判断できます。今の御二方がいかに尽力しようとも、希様の力には、到底及びません。退けることはおろか、一時の歩みを止めることさえも、不可能と心得て下さい」
 本来なら、そんなことは、行動に移してみなければ分からない。ここまで断言できるのなら、少なくとも、亜実には、その信頼性と根拠を示して欲しかった。
「希が行使できる統一力と、私達との差は?」
「複雑系の演算を一部回避して、純粋なエネルギー変換効率のみをシミュレーションにて近似計算しました。その結果、希様は13.0%、由良様が2.35%、純理様はゼロです。もっとも、希様が全力を出すことは、まずあり得ませんから、このような数値は、参考程度の値に過ぎません」
 ゼロという単語に、思わず神経が引きつりそうになる。こんな事はわざわざ反芻したくないけれど、単純なパワーバランスにおける評価では、私は居ないにも等しい。亜実はそう言っているのだった。
「恥ずかしくないよ。使えもしない断片なんて、二つ持っていた所で何の役にも立たないっていうのは、当たり前のことなんだから」
 由良になぐさめられたところで、事態が改善しない以上は、惨めになるだけだった。それに、何を差し置いても、このほんわりした子に及ばないというのが、何よりも堪える。しかし、自尊心に発生した断層に落ち込みながらも、私の思考は、もう一つの重要事項を発掘する。
「『希が全力を出すことは無い』と言っていたけれど――知っているなら、その理由を教えて」
「簡単な理屈です。希様が13.0%の効率で物質変換を続けていけば、殆ど間を置かずして白梅寮どころか、私達のいる空間全体が、死の世界と化してしまうからです。万一にも、そのような行いが為された場合、結果として、希様自身の居場所が消えてしまうばかりか、私との約束も、違えることになります」
 亜実の論法は、旧時代に人類が滅亡しかけた時の状況に似ていなくもない。元素工学の黎明期、不十分な技術で無秩序かつ無制御に莫大な潜熱と放射性物質を撒き散らす兵器が量産された時代。しかし、人類史の中でも稀に見るような汚点の時代においては、亜実のような良識に基づいた論理は、幾度となく裏切られ、塗り潰されていった。
「想像してみて下さい。希様が1㎏の物質を理論エネルギー値の13%の効率で熱エネルギーに変換したら、どれだけの規模の破壊が生み出されるのかを」
 この程度なら、計算機を使うまでもない。1㎏の物質の理論エネルギー値は概算で90ペタジュール。その13%は11.7ペタジュールだから・・・そこまで考えた時点で、全身から血の気が引いていく。
「PNC(窒素炸薬)換算で、約0.4Mt(メガトン)。U235(核燃料ウラン)換算にして、約140㎏・・・」
「もう、お分かりでしょう。この空間は、断片保持者同士が争うには、あまりにも手狭すぎるのです」
 美月が統一力を使っている時の様子から、おそらく、エネルギー変換は対象となる原物質を、ほとんど選ばない。つまり、その気になりさえしたら、誰もが瞬時に、熱核兵器を使用可能であるようなものだった。 しかも、使用回数に関しても、ほとんど制約が無いに等しい。亜実の言う通り、こんな環境で争いなんてした時には、結果がどうなろうと、誰もが悲惨な目に遭うのは明らかだった。そうでなくても、希が理性的に、かつ適度に調整して力を行使した場合、私達は、おそらく手も足も出ないことになるだろう。
 亜実は、こんな話題で、つまらない嘘をつくような人間じゃない。亜実が真顔で話しているのであれば、それは殆ど真実なのだ。青白い光を帯びた瞳を見定めると、私は、黙ったまま、一歩を踏み出した。
 由良の身体を支えている都合上、どうしても遅くなってしまうけれど、歩を進めるごとに、亜実との距離は着実に縮まっていく。亜実もまた、一歩もその場から動くことなく、私達を、じっと見つめている。
「もはや、迷いは無いのですね・・・」
 楓は、右も左も判らないこの空間に転移してきた私と由良を無条件に友達として受け入れ、白梅寮へと導いてくれた。希は、未来には誰にでも可能性が拓けているということを、そして、望みを失わない限り、人と人の関係は変えることができるということを、私に教えてくれた。かつて貰った一粒の希望を、今度は私から二人に与えたい。そして、今の私には、そんな我侭に最後まで付き沿ってくれる子が、傍らにいてくれる。
「純理は、亜実が思っているよりも、ずっと強い子だよ。本当に、びっくりするくらいにね」
 自分が揺さぶりで弱体化しているのを棚に上げておきながら、緊張感のない口調で宣言する由良。ここまで無条件に信頼されると、私も、自分の持っている全てを、捧げなければならなかった。もし、今の発言が、仮に人の話を聞かない性格によるものだったとしても、私の背に、由良一人分の責任が追加されているのは、事実なのだから。
「確かに、挫けない意思は、往々にして人を強くするものです。しかし、同時に、固い心ほど、思わぬ所から脆くも砕けてしまうものです。それだけは、どうか忘れないで下さい」
 亜実の手向けの進言に、私は、思わず苦笑してしまう。
「生きて帰れないとまで言われた私達が覚えていたところで、一体どうなるのかな」
 それとも、亜実の言葉には、私達が直面するべき未来を変えるだけの力があるのだろうか。亜実も、私の苦笑を鏡に映したように、曲がりなりにも初めて笑ってくれた。
「端的に説明するなら、御二方が面白い方々だからです。私もその面白さに惹かれたがゆえに、希望――いえ、妄想とも言える確率の可能性に、願いをかけてみたくなりました。人が、哀れにも、時には一縷の希望を祈らずにはいられないように、です」
 薄明かりの中、亜実は、頬を心持ち染めているようにも見える。亜実は、自らの行動に潜む不整合性か、あるいは、人としての部分を恥じ入っているのかもしれない。しかし、心の機微を内包している亜実の言葉には、人の心に共鳴するだけの強さがある。そして、その強さは、私の心に掛けられていた、最後の頚木(くびき)を取り去ってくれる。
 亜実の目前、息と息が掛かるくらいの距離にまで近づいた所で、私は立ち止まる。あと一歩先に進んで、亜実とすれ違った瞬間から、私達と、亜実を包んでいた時は、二つにちぎれてしまうだろうから。
「・・・・ありがとう、亜実。いろいろあったけれど、良い思い出になったよ。それと、一言だけ忘れていことがあったから、きくなに伝えておいて。『傍にいることが出来なくて、ごめんね』って」
 身体を縛ろうとする郷愁の紐が絡まってしまう前に、それを精一杯の気持ちで引きちぎる。他人とつまらない時間を過ごすという行為が苦痛だった私は、毎日のように一人きりであることを好んでいたのはずに。 私の心は今もなお、春に酔い迷ったままでいるのだろうか。しかし、思わぬ感情に戸惑いを感じていたのは、私だけではなかった。亜実もまた、小さく息を飲んだまま、微かに身動(みじろ)ぎしているのが分かった。
「・・・純理様は、何ひとつ責められないのですね。これまでに重ねてきた失敗についても、私の持つ断片を、希様に譲り渡してしまったことについてさえも」
 確かに、これまでの亜実の失敗は些細なものに始まり、核心的な部分にも及んだものまで、わざとらしいほどの水準にまで揃っている。この事実は当事者として認めて欲しかったけれど、私は、それ以上の行為を望むつもりは無かった。
「前にも、私は話したよね。亜実の評価については一旦保留して、長く付き合っていく中で、改めて決めていくって。それに――きくなに添い遂げられるのは、亜実しかいないから。いま亜実を責めたところで、結局はきくなが傷つくだけ。だから・・・私に返せなかった分の代償があるなら、代わりにきくなに還元してあげて」
 これが、私の導き出した結論。互いの歩むべき道が異なるというのなら、せめて心ばかりのものであっても、二人には何かを遺したかった。 勿論、こんな心証を対価として提示すること自体が私の高慢で、実際には、まったく意味をなしていないのかもしれない。しかし、亜実は幸いにも、私の気持ちのうちの幾分かを汲み取ってくれたようだった。
「いと永く、褪めることなき春の夢も、夢を置くこと能わざるなり・・・純理様の御心、この身にしかと受け賜りました。けれど・・・もしも叶う望みであったなら、永く此処に留まり、きくな様の友として、在り続けて頂きたかったです」
 長い歴史の中で失われてきたものが一杯に詰まっている空間と、悠久の安らぎが保障された楽園。人が一生を捧げて探し求めても得られない価値のあるこの地で、自分のこと以上に強く、相手のことを想う。その強さがあるからこそ、亜実ときくなはこの場所で時を共有して生きていけるのだろう。
「高く買ってくれるのはありがたいけれど・・・亜実が何よりも優先したものを見れば、私がいなくても大丈夫なことくらいは、分かるよ。亜実ときくなの絆こそが、この白梅寮を理想郷たらしめている、所以であるということも。二人がこうしてこの地にいるのも、ある意味では、必然だったのかもね」
 私は褒めたつもりだったけれど、亜実は少し困ったような顔をして首を振った。
「人には、あらゆる事態が結果的には必然としてあるかのように、認識することが出来るようですね。しかし、何故この主観があたかも客観的な事実であるかのように認識できるのか・・・私には、理解できません」
「いかに近しく感じられようと、亜実は人とは違う・・・そういうことなの?」
「私は、結局は亜種生命に過ぎないのです。人と異なる寿命を持つゆえに、きくな様が生涯を終えられる瞬間までお側にあり続けることが出来ますが、時の流れが進むほど、私ときくな様との距離は隔てられていく運命にあります。きくな様に、真の意味で添い遂げられることは、私には叶わぬ願いなのです。そして、それを実現することができるのは、共に同じ時を刻み、同じ時に消えゆくことが出来る、人間だけ・・・なのです」
 いかに人らしく振る舞おうとも、揺るがすことのできない事実。生命としての最も根源的な部分に、厳然と存在している壁。その重さを突きつけられてしまった私は、何も答えることができなくて――
「そんなの、全然間違ってるよ・・・誰が何と言っても、亜実自身がそう言っても、はじめて出会ったときから、亜実はあたしと同じだった!」
 一切の理屈を抜きに放たれた意思の塊が、大気を震わせる。
「そんな哀しいこと、言わないでよ。これまで、ずっと一緒に来たのに、別れるなんて言わないでよ。あたしは、亜実がいてくれるだけでいい。その願いさえ叶うのなら、亜実が人ならざる物であろうと、往き着く先が何処であろうと、ただそれだけで、あたしは救われるの!」
 いつの間に此処まで来ていたのか、きくなは私の背を通して、亜実と対峙していた。
 大きく息をつきながら、射るような、すがるような視線を亜実に送り続けているきくなに対して、亜実もまた、身動きひとつせずにきくなを見返している。
 言葉も無く、瞳の奥に色々な感情を渦巻かせながら、青硝子の瞳の中心にきくなの姿を飽くまでも宿し続けた亜実は――やがて、胸の奥底に溜まっていた想いを引き摺り出し、花月の下に曝け出した。
「やめて、ください・・・・・お願いですから、これ以上、私の心を壊さないで下さい!!」
 漿液を迸らせながら、半ば抉るように引き摺り出された、剥き出しの亜実の想い。無惨にも裂けた胸の傷と苦痛に顔を歪めながら、亜実はその内実を語り続ける。
「私は怖ろしいのです・・・・心の中で限りなく膨張していくきくな様への想いが、あらゆるものを壊していく。私は既に、持って生まれた使命も、この世界の安寧でさえも、この思念の前に破棄してしまったのです。そして、やがて私自身の最後の理性が崩れ去った時、おそらく、私はきくな様の存在自体を、欲しいまま、意の向くままに改変しようとしてしまうでしょう。これまで、必死に封じ込めようとしていた想いが、引き摺りだされてしまった今、私の想いは、もはや後戻りすらできないやもしれません。姉妹の契り以上のものを望んでしまった私を止めるだけの慈悲があるのなら――せめて、きくな様の御手で、破壊して下さい!」
 私は、思わず半歩後ずさっていた。理性での理解を越えた、言い知れぬ狂気の領域。底知れない激情の業火を、私は覗き見てしまったから。
 通常、劣悪な環境下で任務を遂行する目的で製造される亜種生命端末は、仮に障害や欠損が生じても、行動を停止するまで機能を継続する為の、堅牢な構造と活動指針を、基本回路の内に植えつけられている。ゆえに、その任務を放棄するということは夢にも思わず、絶対に覆るはずがないのだ。しかし、目の前にいる亜実は、平然と行動規約を破棄した上で、間接的な形ではあっても、自ら破壊されることまでも望んでいる。そのような意味では、私の目前で身を開いて、剥き出しの感情を曝している亜実は、もはや亜種生命というものではなく、ましてや、人でもない。得体の知れない存在へと、変わりつつあった。
 しかし、きくなは退かなかった。何ひとつ恐れを見せずに亜実に近づいていき、ちょうど、私と立ち代るように亜実の前に立つ。
 そして、きくなは、白梅寮で見せた中で一番優しい微笑とともに、亜実の胸を癒すように、そっと、てのひらを押し付けた。
「亜実がそう望むのだったら、あたしが亜実を壊してあげる。亜種生命としての亜実をみんな壊してしまえば、亜実もきっと、あたしと同じ人間になる。時に不条理で、愚かで、残虐で、哀しいくらいに滑稽なものに過ぎないけれど、あたしは――」
 きくなの言葉は、最後まで続かなかった。言い終わる前に、その身体は腕に強く抱きしめられ、その唇は、強く塞がれてしまったから。
 私はただ呆然と、身体を重ね合う二人の姿に、眼を奪われていた。このような感情が、私の心の奥底にも存在しているというのだろうか。理性を壊し、生涯を焼き尽くすほどの感情が、息を潜めて、機能するべきその時を待っているというのだろうか。しかし、今の私には、その時があるのか無いのかも、誰の手に、そのスイッチが握られているのかも、予測する術は無かった。

「純理も、一度くらいはあれくらいに熱い想いを抱いてみたらいいんじゃない? 相手はもう、わたしだって決まっているけどね♪」
 肩越しに邪気の無い笑顔を見せてくる由良に、私は例の感覚を呼び覚まされてしまって――思わず、微妙に急所を外した肘鉄を撃ち込んでしまった。
「弱っているわたしにも、容赦しないなんて・・・・」
 情け容赦はちゃんと掛けている。ただ、口に出して教えていないだけ。私は、くるみ大の溜め息をつくと、これまでの緊張が抜けて、その場にぺたんと座り込んでしまった。
「混乱に乗じて、怖いこと言わないでよ・・・由良とだと、まるで洒落にならないから・・・」
 この一件で、私は亜実ときくなに人の心の強さと恐ろしさを同時に見せつけられた。そして、これから向かう先では、私もまた、当事者の一人になっていく。
「由良・・・私達の行き着く先は、いったい何が待ち受けているのかな」
「考えることなんてないよ。行ってみようよ、時にまかせて。いつか足を止めて振り返った時、そこには、わたしたちだけの詩が、紡がれているはずだから」
 人の一生なんて、終わってみれば一遍の詩としてしか残らない――そう、由良は言いたいのだろうか。それとも、迸る熱情こそが、人生の詩の部分を形づくってると言いたいのか。依然として、私にとって由良の思考は、解明不可能のベールに覆われている。
 私は半ば習慣的に、これまでと何十回も取り出しては確認していた手帳をポケットの中から引っ張り出す。そして、そこに目を向けてみたとき・・・ずっと待ち望んでいた、新着メッセージの表示画面を確認した。

 このメッセージが笑い話で終わってくれたら嬉しいけれど、そうでなくなっていたなら、
 ごめんなさい。
 これから、私は希ちゃんに会って、純理ちゃんから聞いたお話をありのままに伝えます。
 もしも、私と希ちゃんが二人とも戻らなくて、それでも覚悟を決めた上で私達に会いたいと
 願ったのなら、追記の登録地を探ってみて。少なくとも、足跡くらいは遺すつもりだから。
 白梅寮のみんなには、もしかしたら、このメッセージが最後になるかもしれない。だから、
 ここで今のうちに言っておくね。
「みんなに会えて、嬉しかった。みんなのこと、いつまでも大好きだよ・・・」

 このメッセージの発信時間は、私が楓に相談した直後の時刻になっている。おそらく、楓は万一の事態に備えて、開封されるタイミングを未来時刻に設定したデータを、あらかじめ手帳に送信していたのだろう。亜実が手帳を故障させたのは思わぬ誤算だったけれど、記録部位が分解されずに保存されていた幸運にも助けられて、いま無事に着信することができた。もしも、手帳が壊れている間にメッセージを送信されて、不通に終わっていた可能性を考えると、楓の判断は、二重の意味で功を奏したことになる。
「ねえ、希と楓って、いまどうしているのかなあ・・・」
「ちょっとは考えてから話をしてよ。私に訊かれても、結局は行ってみなくちゃ分からないんだから!」
 指示されたポイントまでは、直線距離で約3㎞。慣れない中距離走のペースを保ちながら、私は内心の焦りを隠せないでいた。
 亜実が携帯してくれていた外用シートで、由良を快復させるのに消費した時間が、約10分。これから目的地に到着するまでにかかる時間も、これまでの大雨でぬかるんだ未舗装路を暗がりの中で走破する悪条件を考慮すると、20分は下らないだろう。
 勿論、この状況が必ずしも一分一秒を争う事態であるとは限らないけれど、事態が収束したという確証も無い。周辺の電磁場がひどく荒れているのか、これまでは通じていた自動位置確認機能も、今は麻痺している。試しに送信したメッセージも不通で帰されてしまって、楓が持っている手帳の現在位置さえ確認できていない状況下では、ただ現場に向かって走ることだけが、取りうる唯一の有効手段だった。
 蛍石から発せられる淡緑色の灯りに浮かぶ風景は、不愉快なくらいに落ち着き払っていて、微かに揺れる葉音と水音のみが、夜の静寂を僅かに染めている。雨露に濡れてぬるりと映えた数百もの細い幹が拡がって来る様は、さながら救いを求めてくるようにも、祈りを捧げているようでもあった。根につまづいたり、足を滑らせそうになりながらも、樹々の間を駆け抜けていく。
 その最中に、不意に脳裏で絶望のイメージが収束しそうになって――私はそれを振り解こうと、力の限り全身を振り絞った。絶望? 冗談じゃない。未来を知ることなんて何人たりとも不可能と言って憚らなかったのは、私自身に他ならなかったのに。
 そして、目的の場所を目前とした私達を迎えたのは、地図情報にあったような窪地などではなく、周辺の水蒸気もろとも、全てが凍りついた湖と、その中央にそそり立つ、巨大な柱形に近い形の物体だった。
「かたくなで、とっても冷たい・・・・こんなもの、希の世界じゃない・・・」
「これほど大規模な破壊と状態変化があったにも関わらず、気付かなかったなんて・・・」
 小里さんや亜実に出会っていなかった頃の私なら、第一に「夢か幻覚にでも冒されているのではないか」と自分の精神状態に疑いをかけるだろう。しかし、楓と希のどちらかがその力を行使したとしたら、むしろ、この程度の規模に抑えてくれたことを感謝するべきだった。
 由良も、この凄絶な光景に目を見開いていたけれど、やがて、先をじっと見つめたまま私に囁いた。
「いる・・・・それも、すぐ近くに。ここからなら、見ることだってきっとできるはず。純理、蛍石を隠して」
 ハンカチで蛍石を幾重にも包んで、ポケットの奥に押し込むと、自分の指先すらも見えない暗闇に包まれる。心細さに耐えられなくなった私は、思わず由良を探り当てると、ぎゅっと、腕を掴んだ。
 そのまま、じっと息を殺して身を縮めていると、やがて視界の端にぼんやり淡緑色に滲む光点が見えてくる。視認するだけでもかなり困難な明度しか持っていない上に、辺り一帯を漂っている氷霧のせいで頻繁に瞬いている。しかし、白梅寮で使われている蛍石に違いなかった。自分の光に覆い隠されて見えなかったけれど、楓はあらかじめ宣言した通り、きちんと私達に、手掛かりを残してくれていた。
 はぐれないように手をつないで、その光へと向かう、私と由良。その先で精一杯の事ができたなら、然るべき道筋が見えてくると思っていた。しかし、この時の私は、まだ、言葉の上でしか、物事を理解してはいなかった。
 何故、小里さんや亜実が、私を止めようとしたのかを。これ以上進まない方がいいと、警告したのかを。私の意思とは関係なく、現実には、常に望まざる事実が内包されている。その、最も冷酷な一面を、私は知らなかった。

 湖面から突き立った氷柱で五体を串刺しにされた楓の姿は、さながら私達の許に降り立とうとする天使のように美しかった。白く透けるような肌、穏やかに夢を見ているような、安らぎすら感じさせる微笑。私には、その美しさがかえって寂しかった。それは、楓が私達から遠く離れた、人あらざる存在へと昇華しようとしている、何よりの証に思えたから。
 氷霧の儚い輝きにつつまれる中、私は、楓の白く冷たい手を、ぎゅっと握りしめる。
 不思議と、涙は零れてこなかった。ただ、胸に風穴を開けられたような空しさの底で、行き場の無い腹立たしさだけが、哀しみの灰の下で静かに熱を放ち続けていた。何故、こうなってしまったのか。楓と希が、どうしてこんな形で出会わなければならなかったのか。断片の存在そのもの災厄と言うのなら、どうしてそれは顕現したのか。なぜ、人間は「未来の事象を知りたい」なんて、思わずにはいられなかったのか。
 確かなことは、「全ての要因が重なった帰結のひとつの形として、この地で楓がこうなってしまった」という、事実だけだった。
 由良も、胸の前で手を握り合わせると身動きひとつせずに、聞き取れないほどかすかな声で祈りを捧げている。私もまた、由良に倣って、楓にせめて、別れの言葉だけでも手向けようと思った。
「楓・・・今更こんな事を話しても、単なる自己満足か一方的な憐憫に過ぎないだろうけれど、それでも言わせて。もっと早く来てあげることが出来なくて・・・ごめんね・・・」
 過去の過失を掘り返したところで、私達の前にある現実が覆ることは決してない。しかし、それが事実であったとしても、決して過去の過失から逃れるための弁明に使われてはならない。自身の罪過と向き合うためにも、今ここで私は楓に謝らなければならなかった。
 そして、私が謝罪の言葉を言い終えた時、心なし、楓の指先が反応したような気がして・・・奇跡のような現象が起こった。
「そのこえ・・・・、純理、、ちゃん、だね・・・」
 閉じられた瞳が、ゆっくりと薄く開かれる。しかし、その焦点はまるで合っていない。
 楓は、風が吹いただけでもかき消されそうなくらいに小さい命の灯火を、揺らしながらも、必死に内に抱え込んでいた。しかし、その努力は生と死の境界線上で危ういバランスを保っている程度のものでしかないだろう。それなのに、楓は揺らめく最後の残り火を、私達への声に費やすことを選んだ。
「あは・・・、、失敗・・・・、しちゃっ、た・・・」
「そんなこと、見たたけですぐに分かるよ・・・。傷に障るから、もう、笑わないで」
 傷口が凍りついて血が止まっているのか、傷の酷さに比べれば、失血量は少ない。それでも、身体を6本の氷柱で刺し貫かれているのに、意識を保っているなんて、楓の精神力は人間離れしている。
 しかし、それもあくまで、今の瞬間に限った話でしかない。この状態が更に続けば、激痛と低温で、いつ容体が急変してもおかしくなかった。
「うう・・・ん・・・・わたし、が・・・つたぇ、たぃ・・・の、、」
 楓は、幾度も声を途切れさせながらも、話をやめようとはしなかった。息をするたび、宙に縫い付けられた身体が軋むような状態であるにも関わらず、底知れない何かに突き動かされているかのように、残された全ての力で、思いを私達に伝えようとしている。
「希、ちゃん・・・・たす・・・、けて・・・・・」
「安心して。視界が及ぶ限り、この近くに希はいないから・・・」
 楓は、微かにかぶりを振る。違うとしたら、楓は一体何を言っているのだろう。震える声が、締めつけられるくらい悲痛になっていく。
「からだ・・・・、こわれ・・・ちゃ・・ぅ・・・の・・・・!」
「壊させないよ・・・これ以上、誰にも楓は傷つけさせない。だから、もう話さないで」
 私の希望は、半分だけ叶えられた。楓はまた、微かにかぶりを振ったかと思うと――再び、眠るように両瞼を閉じてしまった。
 楓の身体と意識は、胸に抱いだその真意を伝え終えるには、あまりにも深い傷を負ってしまっている。それなのに、私は楓の傷を癒すことも出来なければ、楓から受け取り損なった言葉を導き出す手順を組み立てることも出来ない。
 いや、本当に『私は楓を救えない』のだろうか。この命題は、まだ証明されたわけではない。それが客観的に証明されるのは、私がこのまま楓を見殺しにしてしまった時だけだ。まだ、私には多少の時間が残されている。楓の命が完全に消えるまでに残された時間に、全ての知識と思考を傾けて、何としてでも方法を見つけ出さなければならない。
 楓を刺し貫いている氷柱の六本を、全て根元からへし折って引き抜く・・・駄目だ。由良にそれだけの能力があったと仮定しても、凍りついた傷口が溶けてしまうまでに処置が間に合わなければ、途端に大量の出血が発生してしまう。応急処置レベルの止血法しか知らない私に、楓を救えるだけの技術は無い。
 このまま、楓の身体を冷やして仮死状態にすることで、間接的な意味での時間を止める・・・いや、ただ凍結させるだけでは、析出した氷の結晶が、個々の細胞に修復不可能な損傷を与えてしまう。凍結を防止するには、細胞内に凍結防止剤の機能を果たす成分を導入しなければならないけれど、この場で構成して導入する技術も、設備も、此処には存在しない。そんな芸当をやってのけられる人間が仮にいるとしたら、美月をおいて、他にはいないだろう。
 一旦引き返して、美月を連れてくる。応用生物物理学の産物である塩基演算回路を元素から構成することができた美月なら、冷気であちこちが壊死している楓の身体を繕って、修復することだって、できるかもしれない。白梅寮まで、往復一時間以上はかかるけれど、賭けてみるだけの価値は、十分にある。
「楓のことをお願い。私は、急いで美月を連れてくるから」
 踵を返しかけた私を、由良が飛び付いて引き止める。不意を突かれて、危うくバランスを崩しかけた私は、由良を抱きつかせた状態のまま氷上を1mほど滑走する羽目になってしまった。由良の運動量がさほど大きくなかったことも幸いして、転倒はなんとか免れたけれど、全く、この子はいつも唐突で、動物的に行動している。安全性とかいう概念なんて、聞いたことすら無いか、あったとしても、海馬のすみっこで埃を被っているに違いない。
「楓の生死に関わる事態なのに、どうして邪魔をするの!? これで由良に代案が無かったら、私、本気で怒るからね・・・」
 焦燥感の余りに噛み付きそうになった私を、五分咲きの笑顔で受け止ると、由良は、いささかの悲痛も感じていないかのような口調で話し始めた。
「かんかんな純理ちゃんは、ちょっとこわいかも・・・でも、美月ちゃんを呼んだって、私は助からないよ。湖に封印した断片から、遠隔操作で生命維持を試みたけれど、さすがに、もう限界みたい。話すことすらできなくなってしまった私の身体は、純理ちゃんがここから離れるのを待たずに、一線を踏み越えてしまったの」
 普通なら、到底許せないほどの不可解な行動。しかし、そのあまりにも場違いな、ふんわりとした所作は、私の脳裏に一つの釣り針を投げ込んでいた。
「どう見たって、由良にしか見えないけれど・・・・。その口調は、楓、だよね・・・」
 言葉や理屈で考えたわけじゃない。気が付いたら、そう口走っていた。無意識野で引っ掛けられて来た結論が、「それ以外にあり得ない」と、理性に繰り返しシグナルを送り続けている。しかし、いかなる手段を用いたのか、由良に取り憑いたらしい楓は、私がいちいち状況を理解して適応するのを、待ってくれなかった。
「時間が無いから手短に言うけど、由良ちゃんが精神共鳴の同期を取って、身体を貸してくれたの。お願い、希ちゃんを助けてあげて。このままだと、希ちゃんの身体も心も、壊れてなくなってしまうから!」
 見つけた。いまこの場にいるだけの人間と設備で、楓が助かるかもしれない方法。
「自分が串刺しになって死にかけているくせに、希の心配なんて、している場合じゃないよ。いま由良がやっているように、私の体内(なか)にある断片を使用することで楓が助かるというのなら、私の身体くらい、いくら弄られたって構わない」
 楓と由良は、それぞれ手持ちの断片を生命維持や精神のやり取りに活用できている。ならば、然るべき手順や方法を知っていさえすれば、私自身と同化している断片か、きくなから貰った断片を直接楓の身体に同化させるなり、作用させることで、今よりもずっと強力な効果が見込めるはずだった。
 私は、きくなから手渡された髪飾りを取り出すと、楓の身体に開いた傷口の中に全力で突き刺して埋め込む。個人的には、こんな美しさの欠片も無い方法は好きではないけれど、つまらない美意識なんて、曲げてしまったところで、後からまた直してしまえばいいだけの話だった。
 私がきくなの断片を楓の体内に埋め込んだことで、楓は、埋め込まれた断片を直接操作することができる。これで、楓の身体を束縛している氷柱さえ抜き去ってしまえば、傷がこれ以上深刻になるのを防ぐことができる。
 しかし、楓はそう考えてはいなかった。私がせっかく楓の本体に埋め込んだ断片を、引き抜こうとしたのは、由良の身体を借りた楓だった。その真意は分からないけれど、私は、小柄な由良の身体を、体格差で無理やり押さえつける。
「やめて・・・そんなことしたら、断片が身体に同化しちゃう。きくなちゃんが、純理ちゃんに自分の断片を渡したのは、こんなことに使う為じゃないの。希ちゃんから、二人を守るためだったんだよ。それなのに・・・」
 私が突き刺した断片は、ゆっくりとねじ込まれていくように、一定の速度を保ちながら楓の身体に入り込んでいく。その進行に応じるように、蒼白になっていた楓の表情も、血色を取り戻そうとしていた。
「楓の言う通り、楓の断片が封印されている状態で私がきくなの断片を楓に使ってしまったら、一人で断片を二つ持っている希は、誰も止められない。しかし、私はそれで構わないの。楓が自分のことよりも、第一に希のことを思い遣っているのを見た時に、私の心は決まったから」
 由良の両肩を掴んで正面から向き合うった私は、とまどいと迷いを帯びた由良の瞳の奥にある、楓の心に想いを伝える。二人の運命の重さに圧し潰されない為に。自身の想いを言葉にして、確固とした形を与える。
「この場所で、楓がそうしたように、私も、希のことを最後まで信じ抜くから。希と争うためではなく、希を救うためには、楓の存在が必要だと思ったから、私は楓を助けるために断片を使ったの。だから、私のしたことは、ちゃんと理に叶っているよ」
 未来の情報がどうこうとか、背負っている思いがどうかなんて、大して重要なことじゃない。楓は、希を救いたいと思っているし、希もまた、楓を殺すことができなかった。その事実こそが、唯一の解であり、望むべき結末を示している。そこに至るまでの道筋を見極め、導き出すことが、私がこの地で為すべき仕事だと思った。
「違うよ・・・・純理ちゃんは、まだ何もわかってない。その道を進んでいけば、希ちゃんはいつか、純理ちゃんの一番大切なものを代償に求めようとする」
「私の、一番大切なもの・・・?」
 問いかけられた楓は、一呼吸だけ躊躇して・・・両手を、由良の胸に重ね合わせた。
「・・・純理ちゃんと融けあって同じ時を生み出していくことになる、由良ちゃんの生命を。そして・・・」
 私の胸にも、一方の手を重ねる。
「ひいては、これから由良ちゃんと融けあっていく、純理ちゃんの生命」
 電気に打たれたような痛みに似た感覚に、私は反射的に身を震わせる。真剣な表情と視線、触れられた手と、冷酷な事実、それらの全てが容赦なく突き刺さってくる。
 一つ一つを把握するだけの余裕を与えておいてから、楓は、私に最終的な決断を迫った。
「それでも、純理ちゃんは私を助けるの? 生命を賭けられるだけの覚悟を要求したのは、私だけれど、純理ちゃんにとっては、これが元の道に引き返せる、最後の機会になるよ・・・」
 私はあらためて、五体に大穴が開いている楓の本体を見つめなおす。身体から流れ落ちて、湖面に散乱している体液の匂い。わすかに覗いている傷口の色。蒼白になって死にかけた時の、楓の顔色――生理的にも、理性的にも受け付けられないような、五感を背けたくなる経験を、私は嗚咽と嘔吐感を覚えながらも一つ残さず脳裏に刻み尽そうとした。 目の前にある現実を直視して、私達にもこれと同じくらい、いや、これよりも、ずっと酷い出来事が降りかかった時にも自分を見失わずにいられるようにならなければ、この道を選ぶ資格は無い。
 音も無く、身体のあちこちが疼きだすのを感じる。私の身体にあるはずのない、楓が受けた傷の痛みが、ゆっくりと根を広げるように、私を侵蝕しようとしている。理屈ではなく、自分では制御できない心の部分が、必死に私の足を止めようとしている。
 それは、解釈によっては私の自己保存本能が正常に動いている証明とも受け取れるけれど、少なくとも、ここで私が求めているものではなかった。
 永遠にも近い1時間の後、膝を折って腕の震えを鷲掴みにして、必死に抑えようとしていた私の聴覚に、鈴(りん)の高く共鳴する音色が鳴り渡る。いつまでも響き合う鈴の音は決して大きくはなかったけれど、その一音が奏でる旋律は、私の聴覚を水面のように濡らし、やがては天上にまで通じる賛美歌の一編のように、生の輝きを謳い上げていた。
 夢幻だと言われても構わない。たとえ、仮にそれが私の幻想に過ぎなかったとしても、私の内から生まれ出てきたこの鈴の音が身体の疼きを鎮め、震えを止めたという結果は変わらないのだから。
「純理ちゃん・・・、そんなに、進みたいんだ・・・。私と、希ちゃんのこと、本当に心から、想ってくれているんだ・・・」
 楓の声だった。由良の身体を借りた楓の声ではなく、私の目の前にいる、本来の楓からの声。
「楓は、生きていていいんだよ・・・・・わたしは時を数え、純理は路を指し示す。そして、ひとつに融けあったとき、凝(こご)った智は解き放たれて、希望の雫に花啓(ひら)くの」
 由良の、簡素だけれどあたたかい言葉。春風のようなその風は、冷たく閉じた氷柱にすっと線を入れていく。
 ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ・・・凍てついた心に入り込んでいく、あたたかな気持ち。
「さぁ、顔を上げて。私達のいる世界は、こんなにも彩りに満ちていて素敵なんだから」
 氷柱は音も無く、無数の光のかけらへと散って消えていく。
 その場に倒れ込もうとした楓の身体は、すっかり冷え切っている。けれど、その眠るように安らかな微笑みは、あたかも薄氷を解かす白日のように、きらめいていた。




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